田舎大学生くん

くだらない事がほとんどです。紹介するときは本気です。それでも見てくれる方が大好きです。

ヤングアダルト/マカロニえんぴつ を少し考察したい

どうも、田舎大学生です。マカロニえんぴつ、勢いすごいですね。チケットがまるで取れません。本当は売ってなんかいないのではないかと思い始める今日この頃です。まあ前回ツアーのうちにライブに行けたのは不幸中の幸いかもしれませんね…。

 

と、いうわけで今回は新アルバムのリード曲、『ヤングアダルト』を考察してみたいと思います。考察初めてなので、至らない点はあるかと思いますが悪しからず。

 

PVはこちら。https://youtu.be/b5qDEwUMIQg

 

そもそもヤングアダルトって?

ヤングアダルト [5] 【young adult】

おおよそ、一三歳頃から一九歳頃の若者。子供から大人に成長する時期をいう。

図書の分類で、児童書と一般書の中間にあるもの。(weblio辞典より引用)

 

知らない言葉でしたが、実際にある言葉なんですね。13〜19歳。『ヤングアダルト』と『青春と一瞬』の制作期間が近かったという話もインタビューではっとりがしていましたし、中高生向けの歌なのかな?と最初は思ったりしたのですが、

僕らにたりないのはいつだって

アルコールじゃなくって愛情なんだけどな

この歌詞、どう考えても20歳以上対象ですよね。

ここで別のサイトを見てみると、

ヤング‐アダルト(young adult)
1 10代後半の若者。20代前半を含めることもある。
2 若々しい雰囲気をもった大人。

コトバンクより引用)

20代まで含まれるということもあるみたいなんですよね。つまりはこの言葉に定義らしい定義はないとも言えるのですが…。どちらかといえばこの曲は20代前半に向けて歌われているのではないかと思います。実際、はっとりのインタビューでも居酒屋でお酒を飲んで、夜な夜な無駄な話をしているバンドマン達に向けて、彼らを肯定したかったという旨の発言もあったので、少なくとも着想はそちら向けだったのではないでしょうか。

 

また、『ブルーベリー・ナイツ』もそうでしたが、同名、もしくは似た名前の映画が今回もありますね。『ヤング≒アダルト』という映画です。こちらについてはまだ見ていないので内容と曲について合わせて語ることはできません!ごめんなさい!また見てみようと思います。

『MUSIC』にも

週に1本の映画はすごく心を耕すね

僕には選べなかった人生と夢 ストーリー

という歌詞がありますし、はっとりは映画好きなんでしょうね。『マイ・ブルーベリー・ナイツ』の方は元カノが好きでよく見たが、自分にとってはあんまりだったと言っていましたが(笑)。

 

歌詞の考察

ここまでですでにかなり長い!誰が読んでるんだろう…。誰かが読んでいると思って長々書こうと思います。

全体的に詞の力が強いので、切り取ることも難しいのですが、僕が個人的に考察したい部分だけを切り取ります。

ハロー、絶望

こんなはずじゃなかったかい?

でもね、そんなもんなのかもしれない

自分の理想の人生をその通り歩めている人は何人いるのだろう?活発でやる気に満ちていて、楽しそうに見えているあの人やこの人も、「本当にやりたいこと」は別にあって、でもそれはできないとどこかのタイミングで悟って、でもその諦めた末に出した選択も選び取ってみれば悪い選択じゃなくて。でも悪い選択じゃなかったって分かるのは選んだ後、進んだ後の話で、それを選ばざるを得ない瞬間は絶望感に苛まれるもので。

「こんなはずじゃなかった!」

そう言ってヘソを曲げてしまうことができれば楽なのかもしれないけど、結局は折り合いをつけて生きていかないといけなくて。だからせめてその選択を間違いじゃなかった、悪くなかったと肯定するために頑張っているのかもしれない。「こんなはずじゃなかった」には「こうなれていたかもしれない」が内包されている。100点にはなれない自分をそれでも助けてあげたくて、ごまかしごまかし生きている。

という面はたぶん誰にでもあって、それをあえて第三者の目線から言ってくれることで、安堵というか、逃げ場というかそういう場になってくれる歌詞だと思う。

誰も知らない優しい言葉で

あの子の孤独を殺せてたらな

人によって何で悩んでいるのか、何が嫌なのかは全然違う。みんなが知ってる優しい言葉で解決する孤独ならとっくの前に死んでるはずで。でも孤独を感じている。やっぱり、「あの子」にはもっと寄り添ってくれる、自分しか知らない、分からない優しい言葉が必要で。だけどそれは簡単に見つかるようなものでもないし、自分以外誰にも、ひょっとしたら自分にも分からないのかもしれない。

この曲の主人公は、「あの子」が孤独を感じていることは分かっていて、助けたいとも思っていても踏み込めない部分があると思っている。たぶんそれは状況の違いがあるのだと思う。幸福な者から不幸感を持っている者への、上辺だけの優しい言葉は、無責任で失礼で、傷つける可能性をはらんでいることを主人公は知っていて。優しい言葉をかけてはいても、「あの子」の孤独を殺せるまでには至っていない悔しさのような感情が

殺せてたらな

には含まれている気がする。

マカロニえんぴつの『Supernova』という楽曲に

目の前を去ってまだ僅かに

触れそうな後悔や忘れそうな人

という歌詞があるが、主人公はまさにこのような場面に直面しているのではないだろうか。

「自分にならどうにかできたかもしれない」

そんな場面が来た時に、逃げずに自分は向き合いきることができるだろうか。主人公は、おそらくは「あの子」の孤独を殺すことができる唯一、もしくは数少ない存在だろう。主人公は「あの子」にとっての逃げ場でありたいと考えてはいてもうまくいかない難しさを感じる歌詞だ。

 

明日もヒトでいれるために愛を探してる

この歌詞が個人的に1番気になった。

この歌詞の裏を返すと、「愛がなければ明日はヒトでいられない」または「愛を探していなければ、明日はヒトでいられない」となる。

カタカナ表記のヒトという書き方は主に生物学的な話をする際に用いられる用法だと思う。つまり、人間らしく豊かな生活を送るとかそういう次元の一歩手前、生物のヒトとしても愛は絶対に必要で、ヒトとして生まれ、生きていく上で愛は不可欠ということになる。

僕ら(バンド、若者たち)には愛情だけが足りないということが歌の全編を通じて歌われている。その中でもこの歌詞はかなり強い主張だ。

 

世田谷ヤングルーザー

憂いの晩杯や、写真家の記憶

バンパイヤ(吸血鬼)ではなく、「晩杯や」が正しい歌詞だったが、ここはダブルミーニングで間違い無いと思う。

手首からもう涙が流れないように

自傷行為の比喩表現も歌詞に置いておき、わざわざこんな明らかに空耳するワードを無意味にいれるはずがない。と思う。

夜を越えるための無駄な話であったり、空元気で酔った雰囲気を「憂いの晩杯」と称するのは合点がいく。では、「憂いのバンパイヤ」とはなんだろうか。

これは主人公のことを比喩していると思う。「あの子」の孤独に気づいてはいても何もできない、自傷の痕を見ては行き場のない気持ちを抱える主人公を「憂いのバンパイヤ」と歌っているのではないかと思う。

また、「写真機の記憶」という歌詞が個人的にはめちゃくちゃ好きだ。2人の記憶ではなく、写真機の記憶。たぶん、写真機には美しい記憶しか残っていない。わざわざ喧嘩しているところを写真には収めない。でも実際、美しくない部分が人間の記憶には残ってしまう。美しかった過去に縋ってはまた現在に憂いの感情を抱いてしまう。そんなことを繰り返してはまた騙し騙し生きている。

誰かの逃げ場になるということは、自分の逃げ場を作ることでもある。それを愛と呼ぶのはあまりに不純だろうか。

 

終わりに

この曲、というかマカロニえんぴつ、夜の不安な感じを切り取るのが上手いんですよね。

たとえば恋人がいるなら、夜はとても楽しくて幸福な時間になるし、でも1人だととてつもない孤独や寂寥を感じる時間になる。だからこそみんなで集まって無理やり孤独を殺したり、無駄な話をしたりするんですよね。

マカロニえんぴつの『二人ぼっちの夜』に

世界は午前2時すぎに少しだけ優しくなる

という歌詞もある通り、「二人ぼっち」だとしても、そこに愛があれば世界は優しくなるんですよね。

ヤングアダルト』の主人公は「あの子」の逃げ場になれたのでしょうか。そして僕たちは、僕たちにとっての「あの子」の逃げ場になれているのでしょうか。

 

考察というかただの感想文になりましたね(笑)。

3500字も書いたそうです。まだ書き足りない部分はありますが、1つ言えるのはヤングアダルト、本当に名曲。優勝。

 

それでは。